昭和48年11月18日 月次祭



 今朝ほどから頂きます、大変に難しい、まぁ、難しい御教えと申しましょうか。大変難しい御教えを頂きました。先ずわが身におかげをして後に、人を助けてやれと言う御理解がございます。自分が先ず助かると、先ずわが身の上に、おかげを受ける。そしてそれが、人の助かりと言う事にまで繋がっていく様な、私が助かると言う事は、どう言う事かと。まぁそう言う事なんです。
 今朝、私御心眼に頂きますのが、シナ料理ともつかなければ、洋食ともつかないですけれども、何かちょうどこう、あの炒め物、こうあんこをかけますね。シナ料理にはなんか、餡をかけます。西洋料理には、ケチャップのようなものをこうかけます。それが混ぜくってある。それがこう何か知らんけれども、こうかすりもんのような、何か汚らしいものを感じたんです。
 これは御心眼に頂きながら。それを感じましたら、それにあのグリーンピースをね、ぱらぱらっとこう十粒ぐらい、その上にこう撒いて見せて下さるところを頂いた。そしたら、今まで、汚らしいという風に思うておったのが、いやぁこら美味しかろうという様な感じで頂いたんです。例えばあのシナ料理なんかの、まぁちょっと冷えたごたるとば、こう出されたら、何か気持ち悪いでしょう。
 けれどもそれが、ほんならまぽっぽしとると言うか、その上にグリーンピースならグリーンピースがこう、青々としたあの豆ですよ。青い豆。あれがこうかけてありますと、いかにもその食欲をそそると。いわゆる美味しかろそうな。ほんならそのグリーンピースが、かかっていなくっても、食べれば美味しいのである。食べれば美味しいけれども、見た目にこりゃ残りもんじゃなかろうか、かすりもんじゃなかろうか、しかも何かべたべたした様なもんで、気持ちが悪いような感じなんですね。
 けれどもそれに、グリーンピースがかけてあると、それが新鮮に見えますし、また美味しかろうと言う。今日、私は御神前で、二つのことを感じたのです。まぁ汚らしい感じをしたと思うたら、それにグリーンピースが撒かれるところから、はぁこれを食べたら美味しかろうと言う様な感じのする事でございました。皆さんその事を、お腹に入れといて下さい。お腹ちゃ食べるところじゃないですよ。腹の中に要れとかにゃん。ですからこれは大変に、例えばいうならばそういう助かりと言うのは難しい。
 お互いがその、グリーンピースを入れない料理というですか。だから食べれば美味しいけれども、人が見て美味しかろうと思わせれるほどしの信心をしていないと言う事なんです。自分はもう合楽にご神縁を頂いて、やっぱおかげいただいとるです。参りゃ参るがた、おかげ頂きゃいや頂くがた、おかげを頂いておるから、やっぱその美味しいんですけれども人が見るとです。とてもあげな事は出来ん。
 とてもあんなその時間と、お金がなからにゃとかと、言う様な風なものしか与えきらない。食べようと思わない。私も信心をしてみたいと思わせきらない。折角そういう美味しいおかげを頂いておるけれども、人から見ては、美味しゅう見えないと言う事がです。いわゆる、まめでないからなのであります。第一心が健全でないからなのです。私はグリーンピースと言うのはね。あのまめで達者とこう言うから、いわゆるまめであると言うことだと思ってる。
 勿論肉体の健康も、勿論のことだけれども、心が健全でなからなければならない。そこで自分の心は、いかにも健全のようにあるけれろもです、いわば、腹が立ったり、いらいらしたり、隣が儲け出すと、こっちは腹立てると言った様な心が、心のどこかにある事を気付かせて頂いて、これは、自分の心が健全でないからだと悟らなければいけんのですね。もう腹が立つと言うのなんかは、絶対健全じゃないからなんです。心配をすると言うことにおいてもです、やはり同じ事。
 心が豊かに健全になってまいりますとです、人が儲け出しよりなさるなら、こっちのほうから本当嬉しい、自分まで嬉しい。もう全然問題にならない。そこでです私共の信心の内容というものをしてみるとです。例えばほんなら、これは私の信心に致しましても良いです。おかげは段々健全を目指しておるけれども、ほんなら肉体は健全ではない。金光様の信心しござったっちゃ、糖尿病てんなんてん、やっぱ患うてござるじゃないか。してからもう一日のうち、何べんかきつかきつかち言いよりなさるじゃないかと。
 ですからもう大変に、いうならばです。心も健全身体も健全、それでいて美味しいそのいわば自分も食べて美味しいなら、人も見てまた美味しかろうと思わせるようなおかげと言う事が、いかに難しいかと言う事が分かりますけれども、やはりそれを目指さなければいけないと言う事なんです。もう自分な身体が悪かなりでも、儲け出しさえすりゃ良かじゃいかん。もう内輪が円満に行きよるけんで、もう一人ぐらい家ん中に病人が、ずうっと、あったっちゃ良かと言う事ではいけないと。
 いわゆる、完璧な信心を目指させて頂いて、それに一歩でも近付かせて頂くと言う事が、信心だと言う事なんです。今日、午後の奉仕の時に、福岡の松岡さんの息子さん達が親子五人連れで参ってきた。大変色々とおかげを頂いておる。三人子供がおりますが、二番目五つでしょうか、満五つぐらい。寝小便をする。それでその事をお願いをする。自分もやっぱしるしいから、毎日お神様を拝んでから休む。ところがこの頃、毎晩拝んで休むけれども、また小便が出るようになったとこう言う。
 そら子供は拝みよろばってん、親が拝み方が足らんとじゃないかと、私は今日ま言うたことでした。そげんいや子供だけは、欠かさず拝むばってん、自分達は時々忘れて寝るごたるこつがあると言うわけです。ほんなら今日からいっちょ、拝みましょうと言う様な事でしたけれどもですね。私がねその辺の所をね、教祖様が仰る、あの思い分けと言う事を、本当に分けなければいけないよと言うお話をしました。
 教祖様がまぁだ、お百姓をなさっておられる時に、三人のお子さんが一緒に、疱瘡をなさった。そしてお一人はとうとう、養生の甲斐もなく亡くなられた。もうそれこそ大変なお悲しみであった。もうあれは九つまでですかね。九つまでにもなった。後五つと三つかなんかのお子さんが、一緒に疱瘡をかかられた。そして九つの一番お兄さんが亡くなられた。あれは牧右衛門さんといったかね。だから亡くされたことに対しては、大変に悲しまれたけれどもです。
 おかげで二人助かったと言う事は、もうそれこそおかげで助かったと言うて、三人の神主さんを呼んで、家でお礼のお祭りをしておられる。そして相当の金額のお礼と、お米を沢山帰りにお土産に託けてです。お礼を言うておられる。神主さんが神田筑前という神主さんが世の中には、まぁ思い分けの良い人があるものじゃとたまがった。思い分けが良いと。村内にも何軒も疱瘡にかかってから死んだ、また助かったと言うとこもあるけれども、まぁおかげで助かったとも言うておるし。
 又は死んだと言うては悲しんでもおるけれどもです。助かったからと言うて、その喜びを神様に感謝の、いうならお祭りでも仕えると言う程しにと言う事は、もう悲しい事と有難いおかげを受けた事とを、はっきり思い分けておられる。私はこの辺の所を私自身もはっきりしてなかった。けれども思い分けると言う事が、どんなに素晴らしい事かと言う事を私は先日からの改めて、お伝記を読ませて頂きよって気付かせて頂いた。だから私が松岡さんに言うた、しかしあんた小便が出よる事だけは出よるとじゃけん。
 もう小便の出よることだけは、しっかりお礼ば申し上げにゃいかんばいち言うた。今まで小便まるとが、当たり前のごと思うとった。それもただ寝床の中でまるとが、困るのであり、難儀なことだと思うておった。出るとが当たり前。これがほんなら、反対に出らんごつなったら、お座敷の真ん中ででも良か、布団のなかででも良いけん、どうぞまってくれち言おうごとあろうもんと、私が言うた。
 そこでですなら、出ておる事に対してはです、どうぞ小便が出まっせんごとと言うて、お初穂を包んでお願いをするけれども、小便が出よりますと言う事には、それこそ宅祭りでんしてからでん、喜ぶごつならにゃいけんじゃないかて言うてまぁ話させて頂いた事です。昨日は正義先生所の、ゴルフセンターが出来ました、そのオープンのお礼のお祭りと同時に合せて、これからのお願いの言うなら式典ですね。がございました。
 もうそれこそ、朝その事を神様にお願いさせてもらっておりましたら、合楽のヒレイを移すと仰ったが、本当に合楽のヒレイをそのまま、あちらに移したような大変な、賑やかなお天気の上にも、万事お繰り合わせを頂いて、百五十名からの式に臨んで下さる方達があって、ここからも菊栄会の方達なども参りました。
 御用を頂いて下さる方達も、みんなここの、菊栄会の奥さん達が、みんな出てそれこそ正装してから、あの御用されました。もう合楽のあるだけのテントをずうっと張って、そこで御直会がありました。もう本当に賑やかなそして有難い、まぁそういうお祭りがございました。私は昨日始めてあの、始球式というのを致しました。はっはあのゴルフのあの棒ば持ってから、こうやって打つとですたい。
 それがやっぱ当たるこつは当たったけん、ばってんそこらへんに、ころころ転んで、もうみんな拍手喝采されました。あら上手だから拍手喝采するのじゃないですね。他の方達がそのあとにずうっと、打たれましたら、はぁ飛びました。ざぁっと煙を引いて行く。何かこう仕掛けがしてある。私なども打ったら、あぁなるとだったでしょうけれども、その、遠かとこまで行かじゃったから、もうその辺で落てた。二三メートルばっかり行ったぐらいの事だった。
 まぁ初めてあんなことをさせて、まぁ晴れがましいところにでらせて頂いたんですけれども。私はちょうど二三日前に、オープンの二三日前に、ちょっと久留米まで参りましたから、若先生があちらで、今度お祭りを仕える祭場が、どの辺にそれを設けたら良いのか、一遍、下見をしておいて下さいと言うもんですから、も、正義さんところに寄らずに、そこの方に参りました。まぁだもういっぱい、ひっ散らかしてあって、まだ電気屋がようやく電気の設備をしておると言った様な時。
 もう私はたまがりました。まぁ本当に素人の取り越し苦労と言う事を、まぁつくづく感じたんですけれども、もうほんな自分の目、それから現在の今の事だけしか考えないんですよね。みんなとにかくこうあの、球を打つところがだけでも、二千坪からあるそうです。そしてこちらのほうから、こう打ついわゆるゴルフの稽古をするところなんです。それでその北のほうば向いて、こうやって打たんならん。それでこうやってほんなら南のほうば見ると、耳納山がずうっと開けてですね、景色がいいわけです。
 どう言う訳でこう景色のいい方ば見らんで、北向きこら今から、寒うなるとにあぁた北風がビュービュー吹いてくるとに、北風に向ってこうやって打たなんてなんてん、とてもストーブどんどがしこ焚くいたっちゃ、足るこっじゃなかろうて私は思うてから、こらやり損のうとるばいち言う風に思いましたんです。まぁそれと同時にまぁだその、こらその、昨日ですから十七日の日までに、オープンち言いよるけれども、本当にオープンになるだろうかと思うて、まぁ何かにつけて心配になる事ばっかりでした。
 そのまま帰って、私は神様にその心配になることを、神様にお願いさせて頂いた。そして安心した。と言うのはその事をお願いさせてもらいよりましたら、この位ばかりの、テレビを頂きました。でテレビにこんな角の生えたように、アンテナがこうあってあるでしょうこう。あのアンテナが、この木刀で出来とる木で出来とる。それを見たときに、私は、すぐ安心しました。
 このアンテナと言うのは、木で出来ておると言う事はです。アンテナと言うのは、勿論この天地一杯に、その様々なここに映像する、その分子というものがあるのをあれでこう、キャッチするわけなんですね。だからここに様々な映像があるわけなんです。ですから、少し狂うておれば、だから、それが、ちらちらしたり、カラーであったら、カラーで見事に映ったりする訳なんです。それがこの、木でしてあると言う事を見てからね。いわゆる、気は心と言うのですから、心でキャッチするのだと。
 例えここが場所が悪かっても、寒さに向って、北向きであっても、色んな例えば悪い条件が、悪条件があってもです。心配は要らん。心でキャッチするのだからと頂いた。そういう意味で、例えばほんなら、正義さんの日頃の人物というものを知っておりますから、はぁあの人の心でキャッチするのだから、心配は要らんとこう私は思いました。皆さんおかげと言うのは、もうおかげは和賀心にありと言う事は、そう言う事なんですよ。ほんなら、心でキャッチすると言うてもです。
 勿論それは、和賀心と言う事なんです。和らぎ喜ぶ豊かな心と言う事なんです。とにかく心一つでキャッチするんだと言う事です。これが○○さんであったら、私が心配だったでしょう。私があの人はまちっと人間が出来にゃいかんとね。腹の中があんまり美しゅうないと、いう風な人だったら、私は心配だったでしょうけれども、私の知っておる限りの正義さんが、いわゆる心はもう誰よりも、人物の上においては立派であると、私も信じておるから安心が出来た。いわゆるおかげは和賀心に映るのです。
 昨日私は、何年ぶりで正義さんところに参らせて頂きましたが、もう家もまた立派になっておりましたが、もう第一庭がそれもう見事、しかも事務所が表に出来とるのも初めて。それに続いて今度のゴルフセンターが出来て、本当にあの人が家別れをして、ここで久富建設を始める時分の事を思いますと、本当におかげを頂いたもんじゃなぁ、何かにつけて、おかげを受けておる事を、もう本当に改めて感じさせて頂いた。
 私はまぁ行ってからすぐ、ご親戚の方達とご挨拶をして、二階に奉祭してある、お神様のところをお参りさせて頂いた。そして私は後ろから、すぐ繁雄さんが、あのついて見えられましたが、繁雄さんもびっくりされたと思うた。御祈念をさせて頂いたら、私は頭が上がらんほど感動したんです、御神前で。と言うのはね。神様にお礼させて頂いて、御霊様のほうへお礼をさせて頂いたら、その御霊様の前に、小さいこの位ばっかりの、低いお三宝が四つ置いてある。
 その四つ置いてあるとに、一様なお茶のみ茶碗が、四つこうお供えしてある。いうならば仏教でいうならお茶とであろう。そのお茶が毎朝こう四つの茶碗に、汲み分けられてお供えがしてある。恐らくはね。二つは自分の両親、亡くなられた両親の事であろう。あとの二つはまた家内の亡くなられた両親の、これはお供えであろうと思うたら、もう感動が湧いてから、頭が上がらん位に有難かったね。正義さんの信心な、ここにあるんだと。とにかく、親に喜んでもらいたい、親に安心してもらいたい。
 親に喜んで貰いたい、その一念がいうならば、正義さんの信心と言うても良い位だと。私が申しますように、金光様のご信心はです。もう親に喜んで貰いたい、今朝からも皆さんに申しましたけれども。幾ら親先生に喜んで貰いたい、天地の親神様に喜んで頂きたいと言うても、第一肉親の親に孝行が出来ん様な信心では、もうそれは駄目だと。やはり親に喜んで頂きたいと言う一念から、それからもっと有難い親がある、いやもっと大きな親があると言うて、その親のお心を分からせて貰うて、心に添うていく。
 その親の心に添い奉らねばおられないと言うほどしの、言うなら、天地に対する親心というものが育っていくのが信心なのであります。ですからこれは、私の信心もそうでした。親に安心してもらいたい、喜んでもらいたいの一念が、私を一生懸命の信心に、駆り立てたんです。そして私はもっと大きな親があると言う、いやもっと大きな親があると分からせて頂いてです。今天地のいや和賀心時代を作ると言った様なことを申しておりますことはです。天地の親神様のお心が分かって来たらです。
 天地の親神様の心に添う生き方にならせて貰うて、そういう世界を広げていくと言う事に、もう命を懸けておるというのが、私の信心なんです。そういう心を持っておる人だから、私が安心した訳でございます。心でキャッチする、ははぁ今日までのこういうおかげはです。こういうおかげは、成程正義さんの心でキャッチしたんだなぁと言う事です。夕べちょうど、夜の御祈念をしとる時、夫婦でお礼に出てきました。
 それで応接間でお茶でも上げながら、色々お話させて頂いて、まぁ私が先日から、佐田さんのお話をしました。佐田さんたち一家が、もう本当に生きた神様を、そこにもここにも感じられる。神様の働きちゃ素晴らしかのうち、ほうらのもうほうらのと、嫁後と話し、息子と話し孫達とも、ほうらね神様間違いなかろうがと、ほうらねの連発である。正義さん、あんたがおかげ頂いて、有難い有難いね。
 達也有難かろうがち言うたっちゃ、何のじゃろかい、あぁたが一生懸命になりなさるけんたいち、うっふふもうこん奴が、何時でん、あぁた反対ばっかりするけんち言うて、昨日も言うとりましたがです。正義さんどうでも、ほうらねと言えれる様なおかげを、一家中で頂きなさいと言うて、まぁ申しましたことでした。これからの信心な、それなんだ。そこにです、もう一つあの心をです。
 その親に喜んでもらいたいと言う一念をです。もちっと大きな親に向けられた時に、私は信心の熱情というものが、燃えてくるのであろう。もうこれだけの商売が繁盛しとる。これだけ拡張も出来た。だからマイホーム的なおかげであるならば、これでもう十分だ。人間というものは、それに腰掛ける。だから私共の願いというものを、まぁっ一つ大きな願い。親に喜んでもらいたいと言う信心から、もちっと大きな親に対して、喜んで貰いたいと言う一念の信心が出来てくる時です。
 その親に喜んでもらうためならば、一つほんなら寝らん修行もしてみろう、食べん修行もしてみろう、朝参りもはじめて見ろうかと言う事になってくるんだと。だから信心が育っていくと言う事はね、その願うところが、段々高度のところになっていくと言う事なんです。もうチャンスちゃ滅多にない。今までの例えば、久富建設という仕事から、またニュー耳納ゴルフセンターという、大きな仕事を始めるなんて。だからここんにきで一つ、また一段とね。あなたのその心を土台にした。
 その心をもういっちょ育てていくところの信心にならなければねと言うて、まぁ話したことでした。一生懸命話したら一時間話しとった。まぁだ今夜は早う帰らなんち言いよったけれど、もうその本当にあんたどんが二人、夫婦で揃うてから参ってくるち言う事はなかから、もうこの時とばかりにじゃなかったけれども、そんな感じだったです。そこでほんなら、お互いの信心を思わせて頂いてです。私が今朝から頂いた御理解。それこそほんなら正義さん達が、今頂いておるおかげというものはです。
 もうそれこそ食べれば、美味しゅうして応えんごたるおかげを頂いておる。これにもういっちょ、グリーンピースをかけさせて頂いたらです。本当にお父さんが頂きよるとは、こげん美味しかつばいの。私にもいっちょ食べさせてくれんのち言うて、嫁後が着いて来るぐらいな信心にならにゃいかんでしょう。お父さん子供が私も着いて来ると言う様な信心にならにゃいかんでしょう。従業員の人達が、大将あなたが行きなさるとこなら、私も連れて行ってくださいと、例えばそのグリーンピースがかかった時です。
 初めて私も食べたいと言う、人に食欲をそそるような、信心のおかげというものが、顕現されてくる。現されてくる。お互いの信心を、色々な角度から頂いてみて、今日の御理解は、もう大変にいわば難しい。朝それを思うた。言葉にはこんなに見やすう言うとるけれどもです。心が健全である、肉体が健全であると。そしてその上におかげを頂いておらなければならないね。おかげを頂いておると言う事がです有難い。もう本当に人がどげん言うたっちゃ、やっぱ参らなきゃおられない有難い。
 これが言うなら、正義さんの信心じゃないだろうかとこう思う。人には無理してでも食べさせりゃ、こりゃ美味しいたいち言う事になるけれども、ほんなら人が私もいっちょ、食べて見たいとは言わないと言う事なんです。ちょうどその朝の御理解に、今の御理解を頂いた時に、高橋さんと正義さんの例を、二つを引いてから、お話しを頂いたんですけれども。同時にこういうおかげの頂き方もあると言う。例えば皆さんが、高橋さんの信心をご承知の通りであります。
 それこそ朝の三時半には、もうここに着いておられる。親先生の四時の御祈念が、もし、遅うなった時には、もうその日は断食すると言うぐらいな、厳しい修行をなさりながら、おかげを頂いておられる。この頃は十三日会に、発表しておられた様にです。いわば私の方のすし屋の店が、もう九州中に十三と言う店を開くことが出来る様になったとこう言われる。そん時に私は小さい植木鉢に、こう種を蒔いて芽が出たり、花が咲いたりしとるのを頂いたんですけれども、これがもう一つその沃土とでも言うか。
 それが大地にひっくり返されて、そして大地に根を下ろすようなおかげになった時が、株式会社三福が、いよいよ大繁盛のおかげを頂く時であろう。あんたの信心は、こまかそして固か硬いかち、心が硬いか分な良かばってん。土のほうが固か。泥のほうが固か。それでもう出とる芽は、ひょろひょろっとした奴しか出とらん。それを私ドンが見ると、大変なおかげのように見えるけれども、神様の目からご覧になれば、ひょろひょろしたようなおかげだ。
 だからおかげを頂くと言う事は、一生懸命の修行をしたり一生懸命参ったり、一生懸命お供えをしたり、御用をしたりと言う事でも、おかげだけは頂かれると言う事。そんなら心が美しい人がです、なら正義三の様な人物と言うものが出来て、おかげを頂くと言う事もです。そのおかげでおかげだけはキャッチ出来るけども、それではお徳は受けられないと言う事。お徳を受ける私はそん時に思うた。ははぁ私の信心は高橋さんの信心と、正義さんの信心を、一つにした様な信心だったなぁとこう思うのです。
 まぁそこは皆さんが一つ、あのまぁよく考えてみてください。だから信心にはそういう要素が必要だと言うこと。同時にです。私共が頂いておる信心をです、周囲の人達が、それこそ、食欲をそそるほどしのおかげ。そういう信心を身に付けて行きたいと思うのでございます。十二月の十日の、四神様と三代金光様の式年でございますから、何時もの報徳祭に参拝させて頂きます。
 昔は九州のお祭りというほどしに、盛大であった。それがこの頃とみにそれが、衰えてまいりましてから、そのようやく団体の汽車が、一本か二本か出ると言った様な、まぁ貧弱な事になっております。どうでも一つお繰り合わせを頂いて、皆さんもご参拝のおかげを頂かれますようにお願いを致します。先ずわが身におかげを受けてという、その内容を、思い分けという事を芯にして。
 聞いて頂いたと思うのです。私共はその思い分けが、一緒んたくりになっておる。だから、まぁおかげち思うとりますちいう程度。おかげと思うとるとを、そのお祭りにでもして、現さにゃおられんほどしの思い分け。悲しい時には悲しんで、そしておかげと感じたところは、もうおかげと感じたところを、それを現していくだけの信心をさせて頂かなければいけません。
   どうぞ。